学問空間 suzukikotaro’s diary

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土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月18日(月)11時12分7秒

前回投稿の最後に「これは何故なのか」と書きましたが、答えは明らかで、土御門定通が承久の乱の前から北条義時の娘と結婚していたからですね。
しかし、義時娘が土御門定通に再嫁した時期について、本郷氏は承久の乱の後と考えておられるようです。
前回投稿で引用した部分の少し後、本郷氏は、
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 廷臣五人の処刑は稀有なことであり、また幕府の主導のもと武士の論理に沿って行われた。しかしそれは律令に準拠し得る行為であった。【中略】けれども上皇、それも天皇家の家長の配流となれば別である。律令には太上天皇を罰する規定は無いし、いわんや朝廷の主導者を罰するそれなど原理的にも存在しなかった。
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と強調されます(p55)。
そして「武士の論理が朝廷の法より先行した先例を求めれば、保元の乱にまで遡れるだろう」(同)と、保元・平治の乱について論じられた後、
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 しかし承久の乱は違う。後鳥羽上皇の配流は、繰り返しになるが准的・折中等々のいかなる方法を以てしても、朝廷の法では説明ができない。かかる科罪を支えるものは、「屠者・屠類」とよばれ恐れられた武士の荒々しい慣習があるばかりである。世の人はこの時明らかに、武士の論理が朝廷のそれに凌駕したことを思い知ったであろう。かねてから恐怖の対象であった武士の所業が朝廷に及び、それに対し朝廷が為す術をもたぬのを眼前にした時に、彼らも「ひしと武士の世になったのだ」という慈円の認識を共有することになったのである。
 承久の乱、それは朝廷の権威が瓦解し、武士の世の始まりを人々に告げ示す事件であった。武士は人々の意識を改革したこの時点において、名実ともに貴族に代わる存在となった。また幕府は実質的な統治権力として、朝廷を乗り越えて機能することになる。そして如何に撫民・徳政を標榜しようとも、その統治の実現の根底にあるものは、「たちまちに神人を斬首する」畏怖を伴う武力に他ならなかった。
 北条泰時が良くて何でこの私は非難されるのか。高貴な地位にある私が泰時風情に劣るのか。冒頭の事件からは定通の無念の歯噛みが聞こえてくる如くである。けれどもそうした定通の悲憤をよそに、これ以後朝廷は幕府と結んだ者が権威を誇る場となった。幕府と緊密な連絡を保ち、事あらば武力の援助を要請できる者だけが、朝廷の統治行為に関与し得たのである。
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と続けます。(p56)
なかなかの名文なので長々と引用してしまいましたが、アユ釣り事件に際し、定通は本当に「北条泰時が良くて何でこの私は非難されるのか。高貴な地位にある私が泰時風情に劣るのか」と思ったのか。
その点を検討するために、更に続きの部分を引用します。
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 事件から十五年後の仁治三(一二四二)年、朝廷は深刻な事態に直面していた。四条天皇が十二歳で没し、皇位の継承が問題になったのである。朝廷の実力者九条道家順徳上皇の子忠成王を推したが、幕府はこれを拒絶した。後鳥羽上皇嫡流皇位に返り咲くことに、また道家の勢力の増大に警戒感を持ったためと推測される。さてここで私たちは思いがけない人物と再び出会う。他ならぬ土御門定通である。彼は土御門上皇と姪との間に生まれた邦仁王を推戴して幕府に働き掛け、首尾よく認可を引き出した。彼の画策が成功した蔭には、執権泰時の信任厚い六波羅探題北条重時の存在がある。実は重時の同母の姉妹を、定通は前々から妻の一人に迎えていたのであった。
 かつて「我また武士なり」と叫んだ彼と、関東武士との縁組みを利用し外戚の地位を手にいれた彼と。定通の武士観はこの十五年のうちに一体どのように変化したのだろうか。「屠児」たる武士との縁を積極的に求めることに、彼は痛みを感じなかったのだろうか。一時の悲憤など実利の前には何ら意味を為さなかったのだろうか。とまれ、一人の貴人の複雑な武士への思いを伴って邦仁王、すなわち後嵯峨天皇が即位し、朝廷はまた新たな変貌を遂げる。そして彼のその思いが持つ振幅は、「武士」ということば自体のそれに等しいのであった。
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「実は重時の同母の姉妹を、定通は前々から妻の一人に迎えていたのであった」の「前々から」が具体的に何時なのかを本郷氏は明確にはされていませんが、「かつて「我また武士なり」と叫んだ彼と、関東武士との縁組みを利用し外戚の地位を手にいれた彼と。定通の武士観はこの十五年のうちに一体どのように変化したのだろうか」とあるので、安貞元年(1227)のアユ釣り事件の後だと考えておられるのは明らかですね。
しかし、承久の乱で定通と同様に軍事活動に加担した人々は死罪を含め、厳しく処断されており、西八条禅尼(実朝未亡人)の兄である坊門忠信すらいったんは処刑の対象となり、政子・義時の温情で流罪に軽減されています。
それなのに定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
定通の一歳上の同母兄・源(久我)通光は後鳥羽院の叡山御幸に同行しただけなので、乱への関与は定通より軽いはずですが、それでも乱後、直ちに内大臣を辞し、その後、安貞二年(1228)三月二十日に「朝覲行幸時始出仕。弾琵琶」とあるまで「承久三年後篭居」(『公卿補任』)であり、定通とは対照的です。
このように乱後の定通の処遇は本当に恵まれていて、奇跡的とすら言えると思いますが、そのような処遇となった理由は、定通と北条義時娘との婚姻が承久の乱の前だったこと以外に考えられません。
従って定通は、アユ釣り事件に際して、承久の乱の時は俺も武士のように暴れまわったものだが、それでもこうして生きていられるのは義理の兄の北条泰時殿のおかげだ、と感謝こそすれ、「北条泰時が良くて何でこの私は非難されるのか。高貴な地位にある私が泰時風情に劣るのか」などとは決して思わなかっただろうと思います。
私の耳には、アユ釣り事件から「定通の無念の歯噛み」など全く聞こえては来ず、それは「一人の貴人」に妙に感情移入されている本郷氏にだけ聞こえる幻聴だろうと思います。
「定通の武士観はこの十五年のうちに」特に変化することはなく、承久の乱の前から、「「屠児」たる武士との縁を積極的に求めることに、彼は痛みを感じなかった」のであり、邦仁王の践祚を画策するに際しても、妻の同母兄(弟)である北条重時と協力するに際して、「複雑な武士への思い」は伴わなかっただろうと私は考えます。

※追記(2020.6.24)
「定通の一歳上の同母兄・源(久我)通光は後鳥羽院の叡山御幸に同行しただけなので、乱への関与は定通より軽いはず」などと書いてしまいましたが、承久の乱当時、内大臣であった通光は北条義時追討の官宣旨に上卿として関与しており、解職と長期間の籠居は当然の処遇でした。
この点、下記投稿で修正しています。

「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう」(by 長村祥知氏)
https://suzukikotaro.hatenablog.com/entry/e729067bee8a32cc39835bbc43e817a6