学問空間 suzukikotaro’s diary

gooブログから引っ越してきました。

2021-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない」(by 本郷和人氏)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月30日(木)10時36分57秒 東京大学教授・高橋典幸氏は承久の乱が幕府の完全勝利に終わり、三上皇配流・今上帝廃位以下の厳しい戦後処理がなされたとしても、「これによって朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に…

「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月29日(水)12時41分59秒 ウィキペディアの承久の乱の項目は詳しいことは詳しいのですが、「独自研究」色も強くて、「大江親広は父広元の嘆願もあり赦免されている」などとあります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%…

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その5)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月28日(火)13時10分40秒 『承久記』に描かれた北条義時は傲然たる独裁者ですが、『吾妻鏡』での義時は長老の意見をあちこち伺って最後には政子に決めてもらう事務方の役人みたいな感じで、特に落雷エピソードは何とも情…

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その4)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月27日(月)09時05分27秒 『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)の「はじめに」には、------- 当然ながら広元の名は良く知られ、ほとんどすべての日本史の辞書・教科書・概説書の中で、幕府初代別当就任、頼朝にたい…

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その3)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月26日(日)11時59分27秒 続きです。(p163以下)------- だが、動員体制の整備を待つうち、御家人たちの間に再び迎撃論が強まった。この事態をみた広元は、五月二十一日の群議の場で、次のように発言して再び進撃論を主…

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その2)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月25日(土)14時10分52秒 大江広元の長子・親広が源通親の猶子であったことは、必ずしも良質な史料で裏付けられている訳ではないようですが、上杉氏の説明を読むと特に疑う必要もなさそうですね。(p107)------- 頼家の…

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その1)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月25日(土)12時09分34秒 西田知広・白根靖大・近藤成一・下村周太郎の四氏の長村著への書評を読んで少し悲しかったのは、誰も大江親広の死に関する長村著の誤りについて触れていないことですね。まあ、別に長村著での重…

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その6)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月24日(金)10時50分11秒 近藤成一氏は「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっている」と言われますが、例えば近藤氏と研究上の接点が多い佐藤雄基氏(立教大学教授)は、「鎌倉時…

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その5)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月23日(木)11時43分38秒 『中世公武関係と承久の乱』については西田友広(『日本史研究』651号、2016)、白根靖大(『歴史評論』813号、2018)、近藤成一(『日本歴史』837号、2018)、下村周太郎(『歴史学研究』994号…

「零落」の意味等について

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月23日(木)10時52分18秒 投稿保管用のブログ「学問空間」の方に、「大江親広は「関寺辺で死去」したのか?」について、-------零落にはこんな意味もあったにゃん (♡長村先生全力応援ガチファン♡)2021-09-22 23:26:03 『…

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その4)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月22日(水)12時26分54秒 『中世公武関係と承久の乱』の「あとがき」によれば、「本書の刊行は、本書第二章の原論文が二〇一一年七月に第十二回日本歴史学会賞を受賞したことを契機」(p318)とするのだそうで、「第二章 …

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その3)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月21日(火)12時07分6秒 従来、承久の乱の目的が倒幕であることは誰も疑っておらず、『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)の段階でも、「近年では【中略】院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする…

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その2)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月20日(月)12時57分54秒 坂井孝一氏と野口実氏は北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定していること…

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月20日(月)10時49分3秒 征夷大将軍の問題は重要なので、下村論文に即して改めて検討する予定です。また、「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想が生まれた時点についても、後で若干の補足…

鈴木由美氏『中先代の乱』(その2):「源頼朝の再来として」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月18日(土)14時15分51秒 「序章」の征夷大将軍に関する記述は「終章」の最後の最後、「あとがき」の直前に置かれた次の記述に対応していて、これが鈴木由美氏にとって長年の北条時行研究の到達点ですね。(p190)-------…

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(補遺):「民部卿局」は北畠具行母か。

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月17日(金)13時20分46秒(その4)で「民部卿局」が下総国遠山方御厨を大徳寺に寄附したことを承認する元弘三年七月一日付の後醍醐天皇綸旨を紹介しましたが、遠山方御厨に関しては『成田市史 中世・近世編』(成田市、1…

鈴木由美氏『中先代の乱』(その1)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月16日(木)10時19分53秒 吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)に戻ろうかとも思いましたが、信濃に関しては吉井著の記述に若干の混乱が窺われ、また内容も多少古くなってしまっているので、近時…

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その4)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月15日(水)10時23分5秒 後醍醐は元弘三年(1333)六月四日に帰京、東寺に泊して、翌五日に二条富小路殿に戻ります。大徳寺については、この僅か二日後の六月七日に次の綸旨が出ています。(『鎌倉遺文』32241号)-------…

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その3)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)12時24分7秒 『皇子たちの南北朝』から『足利尊氏』に戻って、続きです。(p97以下)------- このときすでに護良は、正式に「征夷大将軍」に任命されていた。②の護良親王令旨が「依将軍家仰、執達如件」と書き…

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その2)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)10時36分52秒 以前、『足利尊氏』を通読したときは「丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札」云々の記述の奇妙さに気づかなかったのですが、今回、なんじゃこりゃ、と思って『鎌倉遺文』を見たとこ…

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その1)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)09時09分32秒 吉井著の紹介を始めたばかりですが、建武の新政が始まったばかりの時期、護良親王が信濃国の知行国主だったとすると、尊氏との関係でそれなりに興味深い文書があります。ま、私のように当初は尊…

吉井功兒著『建武政権期の国司と守護』(その1)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月12日(日)10時52分55秒 それでは吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)を見て行きます。念のため書いておくと、同書は三十年近く前の著作なので最新の研究成果に反する記述も多々あり、後述する…

「伊豆・相模・武蔵・信濃といった関東の中枢地域にかかわる案件を内容とする御教書の登場」(by 森茂暁氏)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月11日(土)11時01分23秒 二日投稿を休んでしまいましたが、この間、建武の新政の開始から中先代の乱が勃発するまでの後醍醐と尊氏の関係を探っていました。この点、長く定説であった佐藤進一説は既に破綻していると私は…

緩募(ゆるぼ)の補遺(その2)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 8日(水)12時52分51秒 森茂暁氏は「もっとも注目されるのは袖判下文である。これが以降の尊氏の政権樹立に直接的につながるのであるが、その最初は、建武二年七月二〇日尊氏が袖判下文でもって配下の武士に勲功の賞と…

緩募(ゆるぼ)の補遺(その1)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 8日(水)09時43分6秒 鈴木由美氏『中先代の乱』(中公新書、2021)の「関係略年表」を見ると、北条時行の軍勢は七月十四日・十五日に信濃で小笠原貞宗と合戦しており、十八日に上野に入って、その後、久米川・女影原・…

緩募(ゆるぼ):建武二年七月廿日付、葦谷六郎義顕宛尊氏袖判下文について

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 7日(火)21時12分11秒 私は後醍醐と尊氏の関係をあれこれ考えて一応の仮説を立て、自分ではその仮説は当時の各種史料と矛盾していないように感じているのですが、ただ、ちょっと引っかかる古文書があります。それは森…

『梅松論』の偏見について

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 6日(月)11時00分54秒 後醍醐が中先代の乱鎮圧の勲功賞として尊氏を従二位に叙したのが建武二年(1335)八月三〇日(『公卿補任』)、直義が新田義貞討伐の軍勢催促状を大量に発給したのが同年十一月二日ですから、尊…

中院具光の鎌倉下向時期

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 5日(日)11時36分53秒 私の考え方を整理しておくと、私は成良親王が建武元年(1334)二月五日に征夷大将軍に就任したのではないかと考えていて、この私見は『神皇正統記』の記述に適合的であり、前年十二月の鎌倉下向…

「高氏は…征夷大将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」(by 北畠親房氏)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 4日(土)15時58分53秒 桃崎有一郎氏の「建武政権論」を検討した際、この時期の歴史の大きな流れを描く三つの史料のうち、歴史研究者は『神皇正統記』・『梅松論』・『太平記』の順で信頼性が高いとする傾向があると書…

「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 3日(金)11時05分26秒 私にとって、当面は「惣〔総〕追捕使」と「征夷大将軍」の違いが明確になれば十分なのですが、今まで佐藤進一説を散々批判して来たものの、佐藤説自体を正確に紹介していた訳ではないので、ここ…