2023-04-01から1ヶ月間の記事一覧
流布本の「三浦筑井四郎太郎」エピソードと慈光寺本の「玄蕃太郎」エピソードの関係をしつこく論じてきましたが、最後に『吾妻鏡』承久三年五月三十日条との関係を検討したいと思います。実は私は、最初から慈光寺本の「玄蕃太郎」エピソードは胡散臭いと思…
前回投稿では「阿房国」(ノ住人)を阿波と解しましたが、久保田淳氏は脚注で「安房国」の宛字とされており(p336)、そうであれば鎌倉への「官物」の海上輸送は理解しやすいですね。なお、「官物」の一般的な意味は私も一応理解していますが、朝廷ではなく…
「都ニオハシケル下野守ノ郎等玄蕃太郎」は「阿房国ノ住人」ですが、「鎌倉ヘ官物漕テ上リケル」とあるので、幕府が「下野守」に賦課した何かの物品を阿波から鎌倉まで海上輸送(「漕テ」)するために鎌倉に来ていたということでしょうか。私には「官物」と…
幕府軍の勝利まで流布本を読み進めるか、それとも慈光寺本に戻るかで少し悩みましたが、流布本の上巻が終わって区切りが良いところなので、慈光寺本に戻ることにします。慈光寺本では「押松」が「鎌倉ヲ出テ五日ト云シ酉ノ時ニハ都ニ上リ、高陽院殿ノ大庭ニ…
続きです。(p95以下)泰時が懸念していた弟の「式部丞」朝時が率いる北陸道軍の動向が描かれます。-------(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰〔そろへ〕あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五…
流布本における「山田次郎重忠」と「伊佐三郎行正」の奇妙な戦いについての情報量と、『吾妻鏡』六月六日条の「山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電」という一文の情報量の差は圧倒的です。従って、『吾妻鏡』の編者が流布本を参照したのであ…
「伊具六郎有時」は北条義時の息子、泰時や朝時・重時の弟なので、最高に恵まれた出自の人ですが、その経歴は今一つパッとせず、子孫もあまり目立たない家柄になってしまいますね。 北条有時(1200-70)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6…
ここで「尾張河」(木曽川)の「九瀬」に分散配置された京方の軍勢を確認しておくと、一番上流で一番東の(1)大炊の渡(大井戸)には「駿河大夫判官」大内惟信以下二千余騎が置かれます。そして下流(西)に向って順に、(2)鵜沼の渡、(3)板橋、(4)気…
先に「三浦筑井四郎太郎」以下の十九騎が東海道軍に紛れて上洛しようとしていたところ、北条時房の命を受けた「遠江国住人内田四郎」六十騎に討たれたというエピソードがありましたが、この場面で「三浦筑井四郎太郎」は「下総守の縁者」と称しています。 流…
私は刀剣の世界に疎いので「御所焼」という言葉も知りませんでしたが、『日本大百科全書(ニッポニカ)』によれば、-------一般には後鳥羽院(ごとばいん)(院政1198~1221)作の刀剣を菊一文字と称している。この作は御所焼(ごしょやき)とも菊御作(きくのおん…
「大炊の渡」での戦闘に関して、慈光寺本にも流布本に似ているといえば似ているようなエピソードが描かれています。しかし、流布本の方は、珍しくはあっても戦場ならばそういうこともあるのだろう、と思わせる程度のリアリティがあるのに対し、慈光寺本の方…
『吾妻鏡』には承久三年五月二十二日に北条泰時が僅か十八騎で出発し、その後、時房・足利義氏・三浦義村以下が続々と出発、北条朝時も同日出発し、二十五日の明け方までにしかるべき東国武士は全て出発した旨が記されています。 http://adumakagami.web.fc2…
続きです。(p82以下)------- 東山道に懸て上ける大将、武田五郎父子八人、小笠原次郎親子七人・遠山左衛門尉・諏訪小太郎・伊具右馬入道・南具太郎・浅利太郎・筒井次郎・同五郎・秋山太郎兄弟三人・二宮太郎・星名次郎親子三人・筒井次郎・河野源次・小柳…
流布本作者=藤原秀能という無理な仮説の重荷を下ろして身軽になったところで、また流布本と慈光寺本をずんずん読み進めて行きたいと思います。流布本は「推松」の報告を受けて「京方」が尾張河(木曽川)の「九瀬」に軍勢を派遣したところまで紹介し、藤原…
3月26日の投稿、「流布本の作者について(その1)」以降、流布本作者は藤原能茂を猶子とした藤原秀能ではないか、との仮説に基づいて藤原秀能の周辺を探り、4月13・14日の「孤独な知識人・藤原秀能について(その1)」「同(その2)」で一応の成果をまと…
私は『吾妻鏡』七月十一日条の「勢多伽丸」エピソードも『吾妻鏡』編者が『承久記』を参照したのではないかと思っています。-------今日。山城守広綱子息小童〔号勢多伽丸〕自仁和寺。召出六波羅。是御室〔道助〕御寵童也。仍被副芝築地上座。真昭被申武州云…
『六代勝事記』の北条政子の演説も紹介しておくと、------- 五月十五日に太上天皇天宝のむかしにひとしく兵をめして洛陽の守護廷尉光季を討せられ。追討使をわかちつかはすに及びて。二品禅尼有勢の武士を庭中に召あつめてかたらひていはく。各心を一にして…
何故に慈光寺本では西園寺家の使者が登場しないのかについては、単純に知らなかった可能性はもちろんあるでしょうが、慈光寺本作者は西園寺家を無視する傾向が強いので、その現われの可能性もありますね。 もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─…
流布本・慈光寺本とも、伊賀光季追討の後、本格的な戦闘が始まるまでの部分を紹介して一区切りがついたので、ここで当該部分についての両者、そして『吾妻鏡』の記事を比較しておきたいと思います。承久の乱の勃発を知らせる京都からの使者は、流布本『承久…
慈光寺本の「山道・海道・北陸道山路ヨリ、一万九千三百廿六騎トゾ註タル」(p335)という表現、手許に何かの資料を持っていて、それを転記しているような感じですね。流布本では、北陸道へは「伊王左衛門尉」等を相当早い段階で送り、「推松」の報告を聞い…
下巻冒頭の一文、「十善ノ君ヲ始〔はじめ〕マイラセテ、大臣・公卿・納言・宰相・女房・諸人集リ、「押松ガ義時ガ首持テ参ラン、御覧ゼヨ」トテ、御簾ヲ挑〔かか〕ゲ、門前市〔いち〕ヲ成〔なす〕」の中で、「押松ガ義時ガ首持テ参ラン、御覧ゼヨ」は相当に…
久保田淳氏は「鎌倉ヲ出テ五日ト云シ酉ノ時ニハ都ニ上リ」に付した脚注で、「六月一日の夕刻帰着したことになる」と書かれています。流布本では、「推松」の帰洛の行程は、------- 推松、院宣の御使として関東へ下りなば、大名共に被賞翫て、馬鞍被引、徳付…
前回投稿で引用した幕府軍の軍勢には、あまり名前を聞いたことのない人が多いですね。久保田淳氏の脚注に「未詳」となっている人を挙げると、まず、三つの関を「預ケ」られたという三人、 海道清見ガ関… 湯山小子郎山道三坂関…三坂三郎北陸道塩山・黒坂…山城…
続きです。(岩波新大系、p329以下)ここから北条義時の長大な演説となります。------- 義時ハ軍〔いくさ〕ノ僉議ヲ始ラレケリ。海道清見ガ関ヲバ湯山小子郎ニ預ケ玉フ。山道三坂関〔みさかのせき〕ヲバ三坂三郎ニ預ケ玉フ。北陸道塩山・黒坂ヲバ山城大郎ニ…
続きです。(岩波新大系、p328以下)------- 時ニ駿河国淡河中務〔なかつかさ〕兼定申ケルハ、「勅答コソ、大概〔おほむね〕案出〔あんじいだ〕シテ候ヘ」。「如何ニ」ト人々問ハルレバ、「十善ノ君、是ヤ此数〔このかず〕賦物〔くばりもの〕、一年ニ二度三…
続きです。(岩波新大系、p327)この辺りは既に今年の一月、杉山次子説を検討する際に引用していますが、参照の便宜のために再掲します。 慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その14)https://suzukikotaro.hatenablog.com/entry/0186940e6e194975a4eb3f97…
前回投稿で引用した部分の最後に「鎌倉ヘハ、大方〔おほかた〕、廿日路〔みち〕ナルヲ、十六日ノ暁〔あかつき〕、京ヲ出テ、十九日ノ申ノ刻ニ、鎌倉ヘコソ着ニケレ」とありますが、「廿日路」は少し大袈裟で、普通は二週間くらいですね。久保田淳氏の脚注に…
それでは慈光寺本も見て行きます。慈光寺本は3月23日の投稿、「もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その24)」で、------- 去程〔さるほど〕ニ、能登守ハ御所ニ参〔まいり〕、軍〔いくさ〕ノ次第申上ケレバ、十善ノ君モ御尋〔たづね〕有ケリ。秀康奏申ケ…
「尾張河」(木曽川)の「九瀬」に向かった京方の軍勢を流布本の記載順に整理すると、 (1)大炊の渡 駿河大夫判官・糟屋四郎左衛門尉・筑後太郎左衛門尉・同六郎左衛門、 是等を始として、西面者共二千余騎(2)鵜沼の渡 美濃目代帯刀左衛門尉・川瀬蔵人入…
続きです。(『新訂承久記』、p77)------- 推松、院宣の御使として関東へ下りなば、大名共に被賞翫て、馬鞍被引、徳付て上らんとこそ思ひしに、徳迄は無く、係る辛き目に逢つる事の悲しさよ、去共〔されども〕命の生たるぞ不思議なると思て、泣々上りけるが…