大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』(講談社学術文庫、2012)
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p262以下
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「中小別当」惟方
こうして当時御在位の二条天皇は、その年十二月二十九日に、美福門院の御所であった八条殿へお移りになった。後白河上皇の方はつづいて翌年正月六日に八条堀河の顕長卿の家においでになった。その家には見物のために作った桟敷があったので、上皇はそこから八条大路をごらんになり、下衆どもを呼び寄せたりなさった。経宗・惟方らはそれを妨げようと指令を出し、堀河の桟敷に板をびしびしと打ちつけさせて外が見えないようにしてしまったのである。こういうように、経宗・惟方の二人が画策して「政治の実権を後白河上皇に渡してはならない。政治は二条天皇がおとりになるべきだ」といっていたのであるが、それをお聞きになった上皇は、清盛を召し出して「わたくしの政治的生命はこの経宗・惟方の掌中に握られている。この二人を思う存分に縛ってひっぱって来てくれ」と涙ながらにいわれた。その時、御前には法性寺殿(忠通)も居合わせておられたということである。清盛にはまた清盛の考えなどもあったのであろう。(平)忠景・為長という二人の郎等に命じて、この二人を捕えさせ、内裏警固の詰所の前まで上皇がお出ましになって、その御車の前に引きすえて二人が拷問を受けているわめき声を御耳に入れたなどと世間では噂したのである。その有様はいまわしいことであるから、わざわざ書きしるすようなものではないし、人々の間ではもうすでに知られていることであろう。そしてまもなく経宗は阿波国(徳島県)へ、惟方は長門国(山口県)へと流されることになった。
さて一方では信西の子息たちはすべて召し還された。経宗・惟方が捕えられたのは永暦元年(一一六〇)二月二十日のことであり、この二人を流罪にした時、同様に義朝の子頼朝を伊豆国(静岡県)に流したのであった。同年三月十一日のことである。惟方のことを世の人々は中小〔なかのこ〕別当(中は諸勢力のなかだちをしたため、小は小男であったため。別当は検非違使別当)というあだ名をつけて呼んだという。
ところで、この平治元年(一一五九)から応保二年(一一六二)までの三、四年間は、上皇と天皇が意見の交換をなさっては同じお考えで事に当たられ、たいへんなごやかに過ぎていった。ところが、上皇が天皇を呪詛しておられるという噂がひろまり、実長卿は上賀茂の宮(賀茂別雷社。京都市北区)で天皇の御姿を描いたものに呪いをこめているのを見たと申したてたのである。天皇の方では、神に仕える男を捕えて調べたところ、後白河上皇の近習(源)資賢卿などといった側近の人々のしわざであることが明らかになった。そこで、応保二年六月二日、資賢は修理大夫の官を解かれたのであった。また(平)時忠が高倉天皇の御誕生の時に、自分の妹の小弁の殿(建春門院、滋子)がお生み申し上げたことから、つい重大な失言をしたということが露顕して、この前の年応保元年に官を解かれたことがあった。こうしたことなどが重なって、資賢・時忠は応保二年六月二十三日に流されることになったのである。他方清盛は、長寛二年(一一六四)四月十日、関白中殿(基実)をまだ年も幼い娘(盛子)の婿とし、娘を関白の北政所(摂関などの正妻の敬称)にしたのであった。
さて、二条天皇は政務のすべてをごらんになり、押小路東洞院(京都市中央区)に皇居を造営してそこへお移りになった。清盛の一門の者はことごとく新内裏のあたりに宿直所などを作り、朝に夕に伺候していた。清盛も誰も心の底ではどう考えても、この後白河上皇がおいでになるのに二条天皇が政治をおとりになることにすっきりしないものがあったが、清盛はよく慎重に考えてたいへんたくみにふるまい、上皇・天皇の双方にお仕えしていたのである。自分の妻の妹にあたる小弁の殿は、後白河上皇の寵愛を受けて皇子をお生み申し上げていたので、そのことも心の中では考えていたことであろう。
蓮華王院建立
さて、後白河上皇は、千手観音を千体安置する御堂を建立することを多年の宿願となさっていた。それを清盛がお引き受けし、備前国(岡山県)に費用を課して造って差し上げた。長寛二年(一一六四)十二月十七日、落慶の供養が催されたが、後白河上皇は二条天皇の行幸があれば嬉しいとお思いになったのに、天皇はまったく気にもおかけにならない御様子で、寺の諸役人の功労を賞して位や物を授けられるよう申請されたことに対しても音沙汰がなかった。(平)親範が蔵人として天皇の命を受けて事を行っていたが、それが天皇の御使として来ただけであった。この御堂は蓮華王院と名づけられたのである(京都市東山区。俗称三十三間堂)。上皇は御所(法住寺。蓮華王院はその一角に建てられた)で、親範を御前に召され、「どうであったか」とお尋ねになったが、親範は「勅許は下されません」と申し上げるや御目に涙をいっぱい浮かべて、「やや、何の憎さで、何の恨みで」といわれたという。「上皇は親範の過失とまで考えておいでになるようでした。わたくしはもう心配でひたすら恐れ入っておりました」と親範がのちに語っている。【後略】
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