学問空間 suzukikotaro’s diary

gooブログから引っ越してきました。

深刻癖

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年12月10日(金)23時55分6秒

azumaさん
>過剰生産から生じるデフレ、さらに通貨安競争まで発展してインフレに、押し詰まったところで恐慌を引き起こします。そして戦争に・・

経済活動を考えるときには、基本的なスタンスとして、あまり深刻にならない方がいいと思いますよ。
井原氏だって、もともとそんなに頭の固い人じゃないのに、『中世の借金事情』では最初から最後までコンスタントに変なことばかり言っていますが、何でそうなってしまうのかというと、基本的な原因は「世界中で債務が無限に拡大しつつあるのだ」という強迫観念だと思います。
だから、民法419条のようなどうでもいい条文に、ここにものすごい社会的不正があるのだ、みたいなことを言ってしまうんじゃないですかね。
その点は前に書きましたけど。

https://suzukikotaro.hatenablog.com/entry/e8c79c104d4623dd63bf3d3a74624348
https://suzukikotaro.hatenablog.com/entry/2d7761ec800f0008322537e2b08249a1

経済活動にはご指摘のような暗い側面とともに、華やかな活力に満ちた側面もあるのだから、両方見ないとまずいと思います。

azumaさんの下記投稿へのレスです。

2010/12/09(木) 20:47:26
証文がものをいう
鈴木さん。安心しました。私が言いたかったこともそうなのです。お気付きの様に私の論拠は『資本論』の受け売りで「一方の人格は他方の人格の同意をもってのみ、つまりいずれも、両者に共通な一つの意志行為に媒介されてのみ自分の商品を譲り渡すことによって他人の商品を自分のものにするのである。だから彼らは、たがいに私的所有権者として認め合わなければならない。この法的関係は(その形式は法律的に発達していてもいなくても契約であるが、)そのうちに経済関係が反映している一つの意志関係である。」というのがそれである。債権債務関係が生じるのは貨幣が「支払い手段」として機能すると生じてくるのであるが、煩雑になるので引用はやめます。通常の場合は債権者にとっても債務者にとっても利益があるから契約が結ばれ貸借関係が生じるのです。一概にこの関係が債務者にとって悪であるといっているのではありません。しかし、この債権債務関係は今日みられるように過剰生産から生じるデフレ、さらに通貨安競争まで発展してインフレに、押し詰まったところで恐慌を引き起こします。そして戦争に・・・通貨管理制度がどこまで有効化が問われています。とはいえ井原氏が触れられているように古代日本が出挙米によって社会の再生産がなされていたとすれば生産者の大多数が債務者(債務奴隷のことか)であったという推定もあながち無視できない論点であろうと思います。この点が何らかの統計によって証明できれば井上章一氏の『日本に古代はなかった』を論破できるでしょう。4日前私は仕事で肋骨を折ってしまいました。あまりいいことはありません。

azumaさんと私のやり取りに関連して、筆綾丸さんの下記投稿があります。

2010/12/09(木) 19:49:18
言語と貨幣
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4121020839.html
「漢字渡来以前、日本人は、日本語の表記する固有の文字をもたなかった。これは今日の日本語学の常識であり、江戸時代の古学者一般も、漢字以前の文字の存在を認めない。だが、固有の文字があったとする説は、はやくから中世の一部の神道家のあいだで唱えられていた。それを記すもっとも初期の文献は、『釈日本紀』(鎌倉時代中期成立)の「開題」である。「仮名字、誰が人の作れる哉」という問いを設定して、漢字は応神天皇の御代に伝来したが、「和字においては、其の起り神代に在るべき歟」という。亀卜の術が神代からあったのなら、文字も神代になければならないという論法であった。そして、近世古学(国学)という学問がわが民族固有の精神や文化の解明をめざしている以上、国粋的傾向をおびてくるのは自然の勢いであった。そこから、外来文化の象徴である漢字の渡来以前に、日本にも文字が存在したのだ、とつよく主張する者がでてくる。
そこまでなら、あったかなかったかの論争である。だが、自然の勢いはやがて、これぞその実物といって、その文字資料お提示するようになる。そのような実物を喧伝することが、近世中期から明治まで(いや、現代でも)しばしばおこなわれた。それらを総称して神代文字という。平田篤胤の「日」、鶴峰戊申の「天名地鎭」、落合直澄の「秀真」などがその代表である。
はやく新井白石が『同文通考』で、各地の神社からそれらしきものが発見されたという風説をつたえる。宝暦のころ諦忍が『以呂波問弁』を著して、天照大神勅語をもとに「神字」がつくられたという説をとなえた。それにたいして、金龍道人敬雄が『駁以呂波問弁』で反論した。篤胤の『神字日文伝』は、自分が見出したというものもふくめて、それまで発見されたという古代文字の実例を紹介して、神代文字の存在を主張する。もちろん、これらはみずからが偽作したものであったり、そうあれかしという願望が妄想になったものであったり、ペテン師にのせられてまんまとひっかかったりしたものである」(白石良夫氏『古語の謎』211頁~)

一部の国粋主義者は、漢字へのコンプレックスから、神代文字なるものを捏造しましたが、言語と貨幣はメビウスの輪の如く、人間存在にとって必須の条件で、これがなくては、人間は人間たりえないように思われる。貨幣は高度に抽象的なものだと思いますが、石・貝・綿・米・銅・銀・金・紙・電子などにフュール・ジッヒに憑依し、自然数にアン・ジッヒに溶融する、おそらく。「貨幣のない社会」とは、どのような社会なのか、これも想像できない。不法行為の続きで言えば、貨幣以外のどのような形で賠償すればいいのだろうか。ハンムラビ法典の云うように、目には目を、と? ニホンザルの社会では、言語らしきものはあるが、貨幣などないようにみえる。ならば、と貨幣なき社会をめざして、人間が猿に反進化しえたとして、どんな意味があるのだろうか。・・・どうも、よくわからない。