投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 8日(水)09時43分6秒
鈴木由美氏『中先代の乱』(中公新書、2021)の「関係略年表」を見ると、北条時行の軍勢は七月十四日・十五日に信濃で小笠原貞宗と合戦しており、十八日に上野に入って、その後、久米川・女影原・小手指原・井出沢と合戦が続き、二十四日に鎌倉に入ります。
当時、鎌倉から京都への連絡に要した時間は最短で三日ですが、緊急事態への対応に忙殺されていたはずの直義が次々と変化する軍事情勢をいちいち尊氏に連絡しているとも思えず、まあ、尊氏は五日くらい遅れて関東の最新情報を知るような感じだったのかなと想像してみると、葦谷六郎義顕宛尊氏袖判下文が発給された七月二十日の時点では、尊氏が知っているのは信濃の反乱が結構な重大事態に発展する可能性もありそうだ、程度のことかと思います。
そうすると、直義が主導した「鎌倉将軍府」は北畠顕家の「陸奥将軍府」に較べて権限が弱く、中先代の乱でそうした「鎌倉将軍府」の欠陥が露呈したので、尊氏は東下に際して「諸国の惣追捕使」としての権限を要求した、という私の一応の見通しからすると、七月二十日は何とも早過ぎる感じがします。
また、対象が越後国というのも微妙な話で、越後国は元々新田一族が盤踞していた土地である上、建武新政で新田義貞が国司に任ぜられ、相当強固な支配を行なっていたようですから、七月二十日付尊氏袖判下文は新田一族との関係で紛争の火種となりそうな感じもします。
正直、この文書が偽文書だったらあれこれ考えずに済むな、などと不謹慎なことを思わないでもないのですが、森茂暁氏によれば、近接する時期に同筆の袖判下文が二通あるのだそうです。
前回投稿で引用した部分の続きです。(p86以下)
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ここで一つ興味深いことに気づく。同筆で二通の、同時期の袖判下文の存在である。右に新出の建武二年七月二〇日足利尊氏袖判下文を掲出したが、これと文書形式や内容が同じで、かつ日付も極めて近い建武二年八月日足利尊氏袖判下文が「東京大学白川文書」に収まっている。この文書は『白河市史 五』(福島県白河市、一九九一年三月、一二〇頁)に写真版とともに翻刻されている(同書での文書名は「足利尊氏下文)。以下に示そう。
(花押〔足利尊氏〕)
下
可領知蒲田五郎太郎 陸奥国石川庄内本知行分事、
右人、為勲功之賞、可令領掌之状如件、
建武二年八月 日 (「東京大学白川文書」)
これをみると、まず袖の位置に尊氏の花押が据えられ、次行の頭に「下」と書かれた通常の形式であり、内容は「蒲田五郎太郎陸奥国石川庄内本知行分」を勲功の賞としてあてがうというものである。注目すべきは、ふつう「下」字の下には恩賞地の被給与者の名前がくるのにそれがないこと、所領の給付という恒久的な内容の文書の日付が「建武二年八月 日」となっており、その発給日が確定していないことである。これはおそらくこの袖判下文が作成途中であったことによるのではないかと考えたい。尊氏は、こうしたヒナ型というべき文書に被給与者の名前と日にちとを書き入れて下付したのであろう。
右掲の文書でいまひとつ注目すべきは、その筆跡と前述の建武二年七月二〇日尊氏袖判下文のそれとが酷似していることである。おそらく同一の右筆が書いたものであろう。この筆跡はほかにも認められる(例えば東京大学史料編纂所所蔵、建武二年九月二七日足利尊氏袖判下文、小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅱ』四四号など)。
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森氏は「同筆で二通の、同時期の袖判下文の存在である」と書かれているので、「東京大学白川文書」に続いて別の文書の紹介があってもよさそうですが、それはありません。
ちょっと事情が分かりませんが、七月二〇日付の袖判下文と併せて二通ということでしょうか。
また、森氏は「これはおそらくこの袖判下文が作成途中であったことによるのではないかと考えたい」とされますが、そんな中途半端な文書が何故に白河文書に残っているのかも不思議ですね。
権利者も発給日も確定していない文書を誰かに渡した状況と、その際の尊氏の意図は何だったのか。
ま、それはともかく、近接した時期に同筆の文書があるとのことなので、七月二〇日付袖判下文は偽文書ではないのでしょうね。
なお、上記引用部分に続いて、下記投稿で引用した部分となります。
「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)
https://suzukikotaro.hatenablog.com/entry/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820